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H25おたや祭り

教育課 : 2013/01/15
開催期間 : 2013/01/14 〜 2013/01/15
開催場所 : 古町・豊受大神宮

おたや祭と山車の由来


 長和町の古町(旧長窪古町)に所在する古町豊受大神宮の例祭は、通称おたや祭として知られています。

 その起源は江戸時代末の、文政十一年(1828)の文書が、現在のところ最も古い記録として残されていますが、お祭はこれ以前よりかなり古くから行われてきたと考えられます。

 古町豊受大神宮では伊勢神宮にならって、20年ごとに遷座祭が行われ、例祭は毎年1月14日の夕方から15日の昼頃まで行われます。お客のある家庭は、この日を年始にし、その歳の出発とするのを慣わしとしています。

 参詣の人々は上田、佐久方面からも訪れ、この2日間に4〜5万人ほどの人出が予想されます。

 おたや祭には、庶民の生活が安定し余裕が出てくると、お祭を盛んにするために山車が奉納されるようになり、旧家所蔵の天保六年(1835)の日誌に記載されています、「御田(旅)屋賑わし、かざり物数ヶ所美事也」との一文が、現在判っている最も古い山車の記録です。

 山車は素朴な農民美術を伝承する貴重な伝統文化として、昭和38年に長野県無形民俗文化財選択に指定され、現在は区単位の5場所の保存会によって奉納されています。

平成25年の山車


八岐大蛇(やまたのおろち)戦いの場【上宿第1場】


第1場
 天照大御神(あまてらすおおみかみ)は天石屋戸(あまのいやと)から出てきたものの、高天原(たかあまのはら)を混乱に陥れた須佐之男命(すさのをのみこと)は神々によって髪(かみ)や手足の爪を切られ、清めのお祓(はら)いを受けると高天原から追放されてしまう。

 天を追われた須佐之男命は、その道中食物の女神である大宣都比売神(おおげつひめのかみ)と出会うと、すかさず食べ物を要求する。そこで大宣都比売神は、口や鼻、尻などから次々と美味な食材を取り出し、調理して須佐之男命をもてなそうとした。しかし、その様子を覗(のぞ)き見ていた須佐之男命は、わざと汚らわしい食事を用意しているものと誤解して激怒し、一瞬のうちに大宣都比売神を殺してしまった。

 高天原を追放され出雲にやってきた須佐之男命は、泣いている老夫婦に出会う。話を聞くと、八つの頭を持つ大蛇、八岐大蛇(やまたのおろち)が娘の櫛名田比売(くしなだひめ)を食べに来るという。そこで須佐之男命は、大蛇退治を条件に娘との結婚を取り付けると、屋敷の周囲に生垣を作り、門に強い酒を入れた桶を置くように老夫婦に頼んだ。現れた大蛇が酒を飲んで寝込むと須佐之男命はすかさず斬り殺し櫛名田比売と約束通り結婚したのだった。

 また日本書紀では須佐之男命が助けたのは奇稲田姫(くしなだひめ)となっている。


大坂夏の陣 家康を追いつめた乱世の英雄真田幸村【上中町第2場】


第2場
 あの徳川家康の本陣を急襲し、「日本(ひのもと)一の兵(つわもの)」と恐れられ震撼(しんかん)せしめた真田幸村の決死の夏の陣を具現した場面。

 幸村は、父昌幸と共に上田合戦で二度に渡り押し寄せる徳川の大軍を、陽動作戦を駆使(くし)して打ち破る。

 大坂冬の陣でも攻め寄せる徳川勢を前代未聞の豪胆さと変幻自在、縦横無尽の動きで敵を翻弄(ほんろう)して打ち破り、幸村の名将ぶりは世間からも驚嘆(きょうたん)され、その名は天下に轟(とどろ)いた。家康からも講和後、「信濃一国を与えるからその引き換えに寝返るよう。」との誘いを受けたが幸村は断固として蹴(け)る。幸村の望みはただ一つ「死して名を残す。」ことだった。

 夏の陣となり再三に渡り、大坂城に攻め寄せる徳川勢に対し獅子奮迅(ししふんじん)の戦いをしたが、いかんせん多勢に無勢。これが最後と決めた真田勢は、幟(のぼり)も甲冑(かっちゅう)もことごとく赤一色の紅蓮(ぐれん)の炎と化し、六連銭の金覆輪(きんぷくりん)の鞍跨に乗った幸村は、愛馬に鞭(むち)打って真一文字に家康の本陣へ突き進む。それを見た徳川勢は、「あれは鬼神じゃ。」と慌てふためいて後退する有り様だった。

 大坂夏の陣での幸村の働きは、本人の望み通り「日本一の兵」と後世に語り継がれ、永遠に我が郷土信州の誇りとなった。


源義経 壇ノ浦八艘(はっそう)跳びの場【中町第3場】


第3場
 平安時代の末期、元暦(げんりゃく)二年(1185)三月二十四日、長門国赤間関(あかまがせき)壇ノ浦(現山口県下関市)で行われた海戦で、二十五年間にわたり栄華を誇った平家が滅亡に至った治承(じしょう)・寿(じゅ)永(えい)の乱の最後の戦いである。

 源氏軍は海の大将を源義経として八百四十艘の船団を組み、源氏軍の陸の大将源範頼(みなもとのりより)が三万の兵をもって陸地に布陣して平氏軍の退路を塞(ふさ)ぎ、岸から遠矢を射かけて義経を支援した。

 平氏軍の大将平知盛(たいらのとももり)が率いる五百艘の船団とは十二時頃より激しい戦闘に入った。関門海峡は潮の流れの変化が激しく、水軍の運用に長けた平氏軍はこれを熟知しており、早い潮の流れに乗ってさんざんに矢を射かけ源氏軍に攻撃を仕掛けた。これに対して潮の流れの速い海戦に不慣れな板東武者(ばんとうむしゃ)の源氏軍は、満珠島(まんじゅしま)・干珠島(かんじゅしま)の辺りまで追いやられ、勢いに乗った平氏軍は大将義経を討ち取ろうと攻めかかった。

 やがて潮の流れが反転して赤間関方向に流れが変わり、戦機が一転して源氏軍に有利に働き平氏軍を赤間関まで追いつめた。二位尼(にいのあま)は平家もこれまでと、安徳(あんとく)天皇と共に入水して果てたのである。これを見た平教経(のりつね)は、敵の大将義経を道連れにと小長刀を振り上げ斬りかかったが、義経はゆらりと跳び上がると船から船へと跳び移り、八艘の彼方に跳び去ってしまった。これが世にいう義経の八艘跳びである。


木曽義仲  出陣の場【下町・藤見町第4場】


第4場
 以仁王(もちひとおう)から平家追討の令旨(りょうじ)を受け木曽義仲が巴(ともえ)を伴って挙兵したのは、治承四年(1180)、義仲26歳のときとされる。当時義仲は、父・義賢(よしたか)が源義朝(よしとも)・義平(よしひら)親子との東国での勢力争いに敗れたために、木曽に隠棲(いんせい)していた。その義仲につき従う兵力は、決して多くはなかった。兵力増強のための根拠地としたのが、依田次郎実信(さねのぶ)の居城、依田城であった。東信濃の源氏を慕(した)う豪族たちの招きもあり、父の遺領(いりょう)と位置付けていた関東への進出をめざし、平家打倒の上洛(じょうらく)経路を北陸道と見据えたためとされている。

 依田城に入ったときには総勢80名との記録もあるが、多くの豪族が参集した。「玉葉(ぎょくよう)」、「源平(げんぺい)盛衰記(せいすいき)」、「平家物語」などの歴史書には、信濃国全域から参陣した記録が残されている。信濃の武士のこれほどの大同団結は、歴史上どの争乱期にもないことである。挙兵・出陣に際し義仲は、岩谷堂(いわやどう)観音(かんのん)で戦勝祈願をしたと伝えられている。

 その後、義仲は横田河原の合戦の勝利で越後を抑え、倶(く)利(り)伽羅(から)峠(とうげ)の合戦での大勝など、平家を追い落とし、一気に都へ攻め上った。京都での義仲は、朝廷との交渉、洛内の治安維持や西国での平家との戦いなど、苦闘の連続であった。征夷(せいい)大将軍(たいしょうぐん)を任ぜられ、旭(あさひ)将軍と称せられたが、後白河(ごしらかわ)法皇(ほうおう)の命を受けた頼朝軍との戦いに敗れ、近江国粟津(あわづ)で討ち死にをした。最期を迎えた義仲には、野山を駆け巡り御嶽(おんたけ)・浅間を望んだ信州の大地が過ぎったのではないだろうか。義仲の最期まで伴にした巴御前は、義仲から、「信濃へ下り、われの最期の有様を後世に伝えよ。」と諭(さと)され、落ち延びた。岩谷堂観音の付近に庵(いおり)を構え、1年にわたり菩提を弔ったと伝えられている。


八重(やえ)の桜」 戊辰(ぼしん)戦争 会津(あいづ)鶴ヶ城(つるがじょう)の戦いの場【桜町第5場】


第5場
 新島(山本)八重は弘化(こうか)二年(1845)会津藩(現会津若松市)で砲術(ほうじゅつ)師範(しはん)の父・権八、母・佐久の間に生まれる。裁縫を習う一方で、幼い頃から男勝りな性格で家業の砲術に興味を示し育った。「ならぬ事はならぬ」の
会津学問の教えなど生涯を通じて会津人の誇りを持ち続けた人物であった。

 慶応四年(1868)、旧幕府軍と新政府軍による戊辰戦争が始まる。会津藩主松平容保(かたもり)は新政府に恭順の意を示したが受け入れられず、賊軍(ぞくぐん)とみなされ会津総攻撃となる。鶴ヶ城の籠城(ろうじょう)戦において、八重も男装し銃を持って戦うが、一ヶ月に及ぶ戦いの後ついに城を明け渡した。八重の働きは「幕末のジャンヌ・ダルク」と語り継がれるほどであった。

 その後、同志社大学創設者の新島襄(にいじまじょう)の妻となり、襄亡き後は日清・日露戦争で篤志(とくし)看護婦として傷病者を助ける奉仕活動に従事し、勲章を授けられる。昭和七年(1932)八重は87年の生涯を閉じる。幕末の動乱で全てを無くしたところから、新しい世界へ踏み出した会津人の生き方は東日本大震災からの復興を目指す今と重なる。




PDFファイル H25山車の説明書(PDF版)

おたや祭りの山車(だし)の位置について


H25山車位置図

お問い合わせは:おたや祭り実行委員会 TEL 0268-68-3111


おたや祭の交通規制図及び花火大会パンフレット
PDFファイル H25おたや祭り交通規制図

おたや祭り花火大会は15日午後7時からに延期になりました。


PDFファイル 平成25年花火大会パンフレット


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